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【解説】チャイコフスキー/交響曲第4番【心を貫く運命の旋律】

チャイコフスキーの交響曲第4番。演奏者の間では「チャイ4」とよく略されます。

とてもドラマチック・劇的な曲調で、多くの人に好まれる曲ですね。

実は、チャイ4はチャイコフスキーの人生観を知るためにとても重要な曲です。

チャイコフスキーは、自分の価値観…とくに人生観を、彼の後期三つの交響曲に作曲という形で示しています。

中でもチャイ4は、チャイコフスキー自身の遺した手紙のなかで主な楽想が告白されています。
そのため、彼がこの曲で伝えたかった人生観をある程度明確に知ることができるのです。

この記事では、バイオリン歴35年以上・ビオラ歴ありの筆者が、チャイコフスキー/交響曲第4番について解説します。

チャイコフスキーの人物像や、この曲のバックストーリーを解説し、聴きどころや演奏面についても紹介していきます。

簡単なまとめ

  • 悲劇の結婚
  • 生涯の友…フォン・メック夫人との文通
  • 不安定な政治情勢
  • 「運命」という不吉な力に抗う曲
  • 技術的には難しいが、表現の意思疎通を取りやすい

チャイコフスキーの人物像

遅咲きの作曲家

まずはチャイコフスキーの人物像を簡単に紹介します。

チャイコフスキーは、ロシア出身です。

彼は裕福な家庭で育ちました。父親が大きな鉱山の監督官という地位だったからです。

彼の家庭は音楽好きでした。

しかし、彼が幼少期に音楽教育を受けることはありませんでした。

というのも、当時のロシアでは、音楽を道楽とすることは許されたものの、音楽を職業とする人は居なかったからです。

彼は、10歳から法律学校に通い、19歳には法務省の役人になりました。

その後、味気ない役人生活にうんざりし、22歳でようやく音楽に向き直ったのです。

彼は22歳でペテルブルグの音楽院に入学しました。

そこで精力的に取り組んだ結果、26歳でモスクワ音楽院の教師としてあっせんを受け、ロシアほぼ初の専業音楽家の人生をスタートするのです。

 
筆者
22歳まで社会経験を積んで、音楽に向き返ったチャイコフスキー。
一方、4歳から音楽教育を受けていたメンデルスゾーン。
経歴としては対照的ですね!

西欧音楽、特にイタリア作品の影響を受けた

チャイコフスキーは、ロシア出身ながらも、西欧音楽…特にイタリア作品をベースとした作風が特徴的です。

彼は、音楽教育こそ受けなかったものの、幸いにも音楽好きの家庭で育ったため、家に「オーケストリオン」という自動演奏機があったのです。

彼は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベルリーニなどイタリア人作曲家のオペラや、モーツァルトのドン・ジョヴァンニを好んで聴きました。

また、法務省時代も、休日にはオペラを好んで聴きに行っていたそうです。

内向的で繊細な性格

彼は、内向的で感受性が高い性格でした。

法律学校ではたびたびホームシックになりました。

故郷を離れてモスクワ音楽院の教師になるときも、周囲の仲間からはひじょうに心配されたそうです。

一方で、自分の望まぬ役人生活に熱意が沸かず、当時誰もが反対した音楽の道に飛び込むなど、激情的な部分も見えました。

彼自身、自分のことを矛盾した性格の持ち主で、さまざまなコンプレックスも抱えていると自覚していたそうです。

交響曲第4番のバックストーリー

後述しますが、この交響曲の大きなテーマは「運命」です。

彼がどのように「運命」を捉えたのか…

その参考として、3つのバックストーリーを紹介します。

「悲劇」の結婚

チャイコフスキーが交響曲第4番を書いたのは、1877年のことでした。

同1877年に、彼は結婚を決意しました。

しかしその理由は、自ら望んだからではなく、「そうしなければならないから」という義務感でした。

チャイコフスキーは妹宛てに、自身の結婚について次のような手紙を送っています。

「私は、状況がそれを要求するがゆえに、そしてさけがたい運命によって、愛なくして結婚するのだ。」

また、チャイコフスキーの弟モデストは、自身の日記のなかで彼の結婚をこう語っています。

「家庭生活から生まれる歓喜や苦悩は、彼がこの何年か苦しみぬいてきた道徳的な悩みから自分自身を救う妥当な手段であると思った。」

※この「道徳的な悩み」とは、世間体とも取れるし、チャイコフスキーの性的マイノリティによる悩みとも考えられますね。

彼はこうして、「アントニーナ」という女性と結婚しました。

アントニーナは、以前からチャイコフスキーに愛を告白する手紙を何度も送り、当時結婚願望のあった彼はこれを受け入れたのです。

手紙の内容はとても感情的で、「天国への思い出にキスを一度だけでもしてもらえるなら、自●してもいい」と書かれたほどでした。

さて…すでに二人の価値観からも察せますが…この結婚は悲劇を生みました。

特にチャイコフスキーにとって残酷で、アントニーナは色情狂とも言われるほどの人間だったのです。

アントニーナはチャイコフスキーの「そっとしてほしい」という願望にも気づくことなく、ふたりきりになることを望んでいました。

さらに彼女の家族も人間関係が悪く、夫婦で実家をたずねたときは、家族間での罵りあいが絶えなかったそうです。

チャイコフスキーは発狂寸前の精神状態になり、3か月目には入水自●まで試みました。

最終的に、結婚3か月目のある日、チャイコフスキーは「至急ペテルブルクに来てほしい」というウソの電報を弟に打たせ、彼女のもとを逃げ出したのです。

●補足:

この結婚の話は、チャイコフスキーという人物のもっとも悪い面を表しているかもしれません。
彼は、結婚前に自分と相手の価値観をもっとすり合わせるべきだったといえるでしょう。

一方、彼の名誉のために書いておくと、アントニーナの色情狂は精神病と診断されるほど凄かったようです。
のちに彼女が「チャイコフスキーは逃げ出した」という事実を離婚調停者から聞いたときも、平気な顔で聞き流し、むしろ彼女を追いかけてくるたくさんの男たちの話をして、調停者を困惑させました。
彼女は最終的に精神病院で人生の終わりを迎えたそうです。

フォン・メック夫人の支え

1876年の末、チャイコフスキーは見知らぬ女性の賛美者から、仕事依頼の手紙を受け取りました。

その女性が家でも演奏できるように、チャイコフスキーのいくつかの作品を編曲してほしいという依頼でした。

そしてチャイコフスキーがこの依頼をこなした後、彼女はお礼の手紙とともに驚愕するような額の謝礼を送ったのです。

「あなたの音楽は、わたくしに生きる喜びと力をあたえてくれます。」
手紙の差出人は、ナジェージダ・フォン・メック。
チャイコフスキーとフォン・メック夫人とのあいだに、こうして手紙のやりとりが始まりました。
フォン・メック夫人はたいへんな金持ちで、夫に先立たれていましたが、チャイコフスキーの音楽に関心を注ぐことでうつろな時間を満たしたのです。
2人は似たもの同士で、お互いの価値観の尊重から結婚こそしなかったものの、文通は14年間も続きました。
フォン・メック夫人は、手紙と仕事の依頼を通じて、チャイコフスキーに精神的および経済的な支援を続けました。
特に、チャイコフスキーが結婚騒動によって再起不能になりかけていたとき、彼女は年額6000ルーブルという高額な年金を給付したのです。
この感謝から、チャイコフスキーは当時作曲していた交響曲第4番を、フォン・メック夫人に捧げることとしたのです。

不安定な政治情勢

1877年から1878年にかけて、「ロシア・トルコ戦争」という歴史的事件が起こりました。

社会思想の違いによって起きた暴動により、ロシアとトルコの間に軍事行動が始まったのです。

チャイコフスキーは、フォン・メック夫人に宛てた手紙で、戦争による多数の人命の犠牲を「災い」として恐れました。

そして、義務の感情と犠牲とのあいだで深い葛藤を感じました。

●チャイコフスキーからフォン・メック夫人への手紙

「このおそろしい戦争は、結局いつかは終わるでしょう。
こんなつまらない結果が、これほどの恐るべき犠牲によって得られるという戦争…
それでも敵がくたばるまではたたかわなければならない。
妥協や、相互の譲りあいで終わることはできず、どちらかが倒れなければならないのです。」

さて、交響曲第4番には、チャイコフスキーのこの戦争に対する考えも影響していると言われます。

もっとも、交響曲第4番の「運命」が示すものは、戦争の概念よりもずっと広義的なものでしょう。

しかしこうした政治情勢もまた、「運命」の冷酷な表現として曲に現れているのではないかと思います。

曲の特徴

全体の特徴

先述したとおり、この曲は「運命」を音楽的にとらえた、標題音楽に近いものです。

彼がフォン・メック夫人や兄妹たちへ宛てた手紙に、この曲の楽想が記されています。

彼は「運命」をどのように表したのか…

これらの手紙とともに、各楽章を追ってみましょう。

第1楽章

↑古い録音のため聴きづらいかもしれません!(以下同様)

「運命。われわれの幸福への追求を実現させないあの不吉な力」

冒頭から、「運命」のモチーフが威嚇する響きで放たれます。

このモチーフは、ベートーヴェンの「運命」を参考にしたともいわれます。

運命のモチーフの主張が終わると、沈痛な面持ちの第一主題が現れます。

「むなしくなげき悲しむほかありません」

しかし、中間部からは徐々に熱量が増していきます。

まるで、感情によって運命と抗っているようですね。

下記のような、2つの旋律の対照的な動きも特徴的です。

コーダでは、この感情がピークに達します。

熱烈に抗議する感情と、根強い運命との闘い…どちらが勝利したのでしょうか。

第2楽章

ロシア民謡を引用した、ひじょうにメランコリックな曲です。

まるで、運命とのたたかいに疲れてしまった、個人の抒情的な感情がうかがえるようです。

「もう存在しないもの、過ぎ去ったものを思い出すさま。
過去にひたっていることは悲しくもあり、何か甘いものでもあります。」

第3楽章

なんと弦楽器の全ての音がピチカートの楽章。

楽器への新たな可能性に挑戦したといえるでしょう。

「第3楽章は一定の感情を表現していません。
少しばかり酒をのんで、酩酊したときに頭に浮かぶ、とりとめのない現象です。」
チャイコフスキーが語るとおり、まるで夢を行き来するようなふしぎな曲調です。
ただし、最後のほうはだんだんと現実に戻る様相も呈します。

第4楽章

「祭り」ともいえるような、爆発的な喜びの感情で始まります。

民族的ともいえる主題が、熱狂的に繰り広げられます。

しかし、ときおり「不安」ともいえる感情が現れ、ついに楽章の後半部分で「運命」のモチーフが再び鳴り響きます。

ですが、その運命の力を払いのけるかのように、喜びの感情がふたたび現れ、ついには「運命」に勝利する形で幕を閉じます。

「あなた自身が喜びのための動機を発見できないなら、他の人々をご覧なさい。
民衆のなかに入りなさい。
この楽章は、祭りの民衆的な楽しみの絵です。

 

しかし、やっと我を忘れられそうなときに、またしても運命が現れ、自分自身を思い出させます。

…ですが、他人はあなたのことなど構っていられません。
個人の孤独な悲しみなんて気づくことはできないのです。
他人の楽しみを喜びなさい。
そうすれば、何はともあれ、生きることはできるでしょう。」

演奏難易度(バイオリン)

一言でいうと、体育会系です(笑)

技術的にはかなり難しいです。

とにかく速弾きとハイポジションが求められるため、基礎力はもちろん、体力も要します。

筆者
この嵐のパッセージを体育会系と言わずしてなんという(笑)

一方で、表現に関しては奏者同士のコンセンサスを取りやすいです。

この曲が標題音楽に近いこと(明言していない部分もあれど)や、民謡のような旋律が多く歌いやすいことが理由です。

また、賑やかなイメージに反して編成は王道。楽器がごちゃごちゃしていなくて分かりやすいです。

こうした要因から、上手い学生オケでもよく取り上げられます。

部活動でチャイコをやると、本当に熱くて良い思い出になりますよね!

まとめ

  • 悲劇の結婚
  • 生涯の友…フォン・メック夫人との文通
  • 不安定な政治情勢
  • 「運命」という不吉な力に抗う曲
  • 技術的には難しいが、表現の意思疎通を取りやすい

チャイコフスキーの交響曲第4番を紹介しました。

この曲が作られた1877年は、チャイコフスキーの「運命の年」とも言われます。

彼の人生観を大きく変えたできごと…それらが丸ごと詰め込まれたような曲です。

ぜひその価値観の深淵を味わってください!